昭和五十六年三月二十二日 朝の御理解


御理解第九十八節 「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時にはとりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え」


 「落ち着いて静かに願え」ということは、平静心を持ってということだと思うです。ただ平穏無事な時に自分の心ん中に何の心配も不安もないというのとはちょっと違うようですね。平静心。いわゆる信心による平静心。その平静心を持って、まあ神様に直接こうお伺いでもする時には、そういう心で。
 だから、心が落ち着かない。不安でたまらん。心配であるという時には、いよいよ自分の心に信心の定規を押し当ててみなけりゃあならない時ね。そして何がこの不安なのか。何がこういう心配なのか。どうしてこのイライラする心は、どこからどうしてこんなにイライラするのか。それを私は確かめて行くということ。
 「心は信心の定規じゃによって」とあります。まあ結局「頼りなきものを頼りにするゆえの」というあれは、「頼りなきものを頼りにするゆえの、この不安な心なるかも」か何かという歌。お歌がありましたね。これは確か、教主金光様のお歌であった。
 私共がイライラしたり心配であったりという時には、確かに頼りないものを頼りにしておる時なんです。勿論、「神様を頼りにする」とこう言やあ、もうそれだけなんですけども。神様が頼りになる神様にお任せしてあるというところから平静心が生まれてくるんです。けれども、その、私は、神様を頂かせて頂くことのために、いよいよ以て、合楽理念の実験実証を日々治めて行かなければならんと思うですね。
 昨日の御理解に、「真とは合楽理念」「合楽理念は真だ」とこういう。だから、真を以て行ずる心を真心というのである。これはお道の信心だけじゃないですけれども。「真、真」「真心、真心」ということをまあ信心では申しますけれども、その真がなかなかどこまでがどういうふうに真なのか、真心なのか。
 自分は真心でしたと思うけれども、反対のことになったとか。自分はこれが自分の真だと思うけれども、真のおかげが伴うて来ないとするならば、やはり心に信心の定規を押し当ててみて、これは本当なことではないんだとというふうにまあ悟って行かなきゃならん。 それをです。私は合楽理念は本当に今までその求めておったその真とか真心を、合楽
理念を行じておる時が真、真心である。合楽理念そのものが真だと私共が信じ切れるおかげね。「健康管理は合楽理念を以てする他はない。お商売は合楽理念を以てする他はない」と、もうその言い切れるだけの合楽理念を身に付けなければいけない。
 そこには必ず、私はその合楽理念の中にも申します「成り行きを尊ぶ。大切にする」という生き方なのが出来ておりますと、心が平静というだけではなくて、そこに喜びがいつも伴うておる。それは勿論そこに実証が現われてくるからである。
 先だって、あの中学生の家出の話が四五日続きましたがね。あん時にお父さんが子供を探しに行って、食堂でカツ丼をお願いしたら、間違えて親子丼を持って来た。そん時にお父さんが実感した。はあ、これは親子の者がままになるぞと思うた。「取り替えよう」と言うたけれども、「いや取り替えんでもいいです」と言うて、それこそ有難くその親子丼を頂いて、もう明くる日、毎日夫婦で本当に意気消沈して、もうこげな難儀なことはないというお参りであったのが、その親子丼を頂いた明くる日は、もう二人見るように明るい顔で、「親先生もうおかげ頂きます。私はあれ以来、自分の心がもう本当に、言うなら度胸が出来たというか、有難くなったというか、もうあの、この息子のおかげで私共が信心がクズクズしておった信心が、本当の信心に目覚めさせて頂いたような気がする」というお礼であった。
 その夕方に、またあの言うなら、心探しにそこのお父さんが西鉄に勤めておりますから、西鉄の大橋駅に降りて、そしてそのいわゆる親子丼を頂いた。大橋の駅に食堂街があるそうですね。その食堂街を歩いておる時に、息子とパッタリ会った。もうそれっこそそりこそびっくるするやら有難いやらでね。
 結局自分の心が平静になったときにおかげを受けておるわけです。もうどうしてこんな難儀が続くじゃろうかとかね、どうしてこんなに心が落ち着かんじゃろうか、腹が立つじゃろうか、情けないじゃろうかという間はおかげにならんです。その心がね、言うなら平静心になった時、神様に御取次を頂いてのことであるからと。それがね本当に、嘘のように自分の今まで不安であった心配であった悲しかった心が、有難い心に変えられる。
 例えば、合楽理念の実験実証というのは、まあね、そういう働きが感じられるところに、どんなに普通で言うならば、心配事の心が落ち着かないはずのことが、心が落ち着いてくる。平静心。
 ですから私は、もう一遍昨日の御理解を頂いてです。合楽理念そのものが真だと。それを行ずることが真心だと。もう真心とか真とかと、もういろいろ追求することはない。その証拠には真のおかげが必ず伴うんだと。もうこれだけ言うなら合楽理念は簡単ですというのはそういうことではなかろうかのうや。
 勿論それをならいよいよ深い広い明瞭にして行くということはまた別ですけれども、合楽理念に基づく生き方が真を真心で表す生き方ということに、いわゆる本当の意味においての信心生活、そこに安らぐ心、平静心。いつでも神様と交流することの出来れる心の状態が開けてくるのです。
 ですから、どうでも一つ、あなたの合楽理念をいよいよ確かなものにして行く、言うならば修行が日々なされなきゃあいけない。修行が日々というと難しいようですけれども、それが楽しゅう有難い。そうせずにはもう前には進まれないというくらいにですね。合楽理念に基づく生き方をいよいよ身に付けて行きたいと思うですね。どうぞ。